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聖なる旅 



RAINBOW TOUR  2007

セドナ  編




2007.10.21〜11.4
                                                                               

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参加者レポート  Part 1
★ 服部ママ 編

2006年のツアーから)

 もっと フレッシュなうちに書くべきだったのに 腰を据えて 取り組まないと まとめられないと思っているうちに 随分と時間がたってしまった。でも、熟成された今の感覚でまとめると どういうことを 私は書くのだろう・・・
 
miyukiさんが セドナツアーをアップされたのを見た途端、胸が おおきくひとつ脈打った。 「きたか!」という感じで。 その時から 頭の中はそのことでいっぱい。 
もし行く事になったら 其の前にクリアにしておかなければならないことはなんとかなる。 そのとき ふと 息子をほんとうは連れて行きたい、と思った。
 
息子は 高校を一学期で辞めてから アルバイトをしたり スケボーに熱中したり、その中で持って生まれた人懐っこさで サラリーマンや 床屋さんに大学生、市場で働く人・・・それはそれはたくさんの友達をつくっていた。悩み傷つき、ときにはけんか、事故もした。 
男の子を持つ親のする心配は、おかげさまで全部させてもらった。女の姉妹しかいない私に よく耐えられたものだと思う。時を同じくして 夫は鬱になった。 
(そのころ、luna rainbowに出会った)
 
そういう状態の息子に 風を入れてあげようと思った。光を見出せないでいる まんねりした彼に 違う視点からのアプローチが必要かもしれないと感じていた。 そこでmiyukiさんからの提案で リーディングしてもらうことに。 
いわれたことは、「今は行動範囲を思いっきり広げて 吸収して活発に行動する。内なるパワーを今
目覚めさせる時。(お金も)有効的に消費する時。それがあとあと大きくかえってくる」
 
こころは決まった! 
出発までは、まさに怒涛のごとく走り回った。おかげで miyukiさんからのメールチェックをする余裕もなく それがあとで 「しまった!」ということになろうとは・・・ 
そういう流れのまま出発の朝を迎え、「行きたくない」と まだ 無駄な抵抗をしている息子をたたき起こし福岡行きの 高速バスに乗った。 
福岡空港でmiyukiさんらと会い、成田まで飛んだ。成田で 少しのんびり構えすぎて大慌てで搭乗することになってしまった。(皆さん、申し訳ございませんでした (汗))
 
サンフランシスコに着いたときに この旅のメンバー全員と顔をあわした。更に そこからフェニックスに飛び そこで待っていらした今回のドライバーのレイさんを紹介された。ひとなつっこい にこやかな笑顔に私はほっとしてすぐに話しかけた。
たったひとり参加している、しかもどういう旅かも知らないで連れてこられた聖也にとって、男性が ひとりでもいるということが どれだけ心強いかと思ったから、そのことをお願いしたのだった。 
その後、旅の間中、レイさんには何かとお世話になった。
 
聖也は 「はめられた」と私に言った。そうよ、結果として はめたことになるわね、と心の中で思った。この日から聖也の(あっこう)はとどまるところを知らなかった。 
朝早くに起きて、食事もオーガニックストアで買ったパンやチーズ、ハム、フルーツなどですませ、薄暗い中出発。それだけでも 聖也にとっては私を責めるには充分だった。
 
次の日は、グランドキャニオンへ。とにかく寒かった。みんなはアノラックにリュックと準備がいい。案内を見たら かなりの標高だった。寒いはずだ。おまけに雨・・・ ここで最初の「しまった!」状況。 
雨宿りできる大きな木もその辺にはない。聖也のひややかな視線にどうすることもできず もう泣きべそをかきそうになった。 
熱いセドナ、雨の降らないセドナ。それだけがしっかりインプットされていたのだ。「どうしてちゃんと調べてこないの〜!」「くそ〜、もう!!!」と聖也。でも心根のやさしい聖也は、雨宿りには到底ならない木の下で 「ここで待ってろよ!(プンプン)」と言い捨て、ポイントに向かって歩いて行くみんなに車にいますからと、雨の中を走って伝えに行ったのだった。 

三日目は モニュメントバレーへ。ここも寒かった。持っていった服は「暑い土地用」ばかりだったけど
それらを全部重ねて着ていた。パジャマは 結局着っぱなしだった。 
冷えきったからだを暖めようとみんなで入ったカフェで ホットチョコ(だったと思う)を飲んだ。そこで働いていた Mr.ZEEKに「どこからきたの?ここはどうだった?」 聞かれたから、「とにかく寒くて寒くてたまらない。」と言ったら 「きのうまでは いい天気で暖かかったんだよ。」と。すると、せっかく来たのに残念だったねというような顔で私にズボンのポケットから「For you.」と言って何かをさしだした。 
「Onedollor coin.」だという。ドルは紙幣しかないはずなのに! シルバーとゴールドと2枚くれた。コインにはネィティブの人の顔が書かれていた。そして、「Next year come back.」と繰り返し言ってくれた。「Yes,I hope so.」と、私は答えていた。
 
神のなせる業に感動し、古びとたちに思いを馳せるのだった。360度、見渡す限りの赤い岩山の中で、聖也も しばし解放されたのか、夕暮れ色に染まりはじめた頃、そこでレイさんといっしょに写した写真では 両手を広げていた。

モニュメントバレーで泊まったホテルも心地よかった。そこで 貰った近辺の地図を 見てたら教会のマークがあった。なんと SDA教会だった! こんなことろにあるなんて、と まして それを目にするなんて、とても驚いた。行ってみたいと思ったけれど なにせここは アメリカ。 地図上では近いのだけど
あきらめた。SDAは 息子が 幼稚園から小学校までお世話になったところだったのだ。
 
セドナに戻り 夜はスェットロッジ。それって何?ここで また「しまった!」状態。出発前の下調べが充分でなぁったことが悔やまれたが それも すべてそれでよかったのだ。 
飛び上がるほどの でこぼこ道を 上へうえへ登っていく。ひとしきり揺られて 着いたところは 異次元の世界だった・・・・ネィティブの特別な儀式の雰囲気。聖也の顔が気になる私は どっぷりその中に入れない。案の定 「うらむからね・・」と帰れるものなら帰る!くらいの心境のよう。来るだけで えらい!と言ってくれるみんなの言葉を支えに 本当に良かったのだろうかという気持ちとの間で なんとか踏ん張れた。今は 解らなくてもあとで 必ず すごいことを経験したのだということを 実感するはずだから。

4年間 何かに 必死になるわけでもなく 「だるい」ことはしない、楽して稼いで、遊んで、という生活だった彼には 確かにハードだろうと思う。みんなと同じことをするしかない彼は みんなについて 輪の中に入り 足でリズムを取りながら 歩き出した。すべて やるしかなかった。いよいよ ロッジの中にはいる。 中はサウナどころではない。真っ暗な中、輪になって 歌い、祈る・・・・・彼にも祈るように促す。彼は、後ろに居た男性に何か話しかけられて、 にこやかに笑っていた。 
これ以上は 無理!と思ったときに終わった。そとに出て、満月の澄み切った空気が 汗で濡れたからだに気持ちよかった。聖也は 持ってきた2本しかないジーンズの1本を着ていたのだが、それを絞っていた。(私と息子だけ miyukiさんからのメールチェックを怠ったせいで、それようの服を用意していなかったのだ)
 
翌日、ボルテックス巡り。ベルロックに始まり、来る日も来る日も 赤い岩山登り。下から その岩山の形を確認して、どこまで登るのだろう、と「まさか、上までじゃないよね・・・・・」と、miyukiさんの顔を見ても、その顔に 全く迷いはない。上まで登る気だ。 
この年になって、こんな恐怖を味わうことになろうとは考えてもみなかった。しかも 自分の意思で選択してるのだ。この恐怖も。 両手を遣い、つかめるものはなんでもつかんで、ただ登ることだけに 集中していた。
 
ここまでは、2006年に書いて 終わっていた。今、2008年6月も 終わろうとしている。 
だんだん記憶力が乏しくなってきているから2年前のことをどこまで振り返ることができるのか わからないけれど 去年の旅の準備の段階から、強く感じていたことは、私は聖也をとっても頼りにしていて
どんなに助けてもらっていたかということだった。 
私が引っ張って行ったつもりでいたから そう気付いたときは「そうだったのか・・・」と 少なからずショックだった。 そう、彼は旅のあと ますます頼りがいのあるおとこになった。
 
2006年の旅のあと、聖也は学校に行き始めた。家業を手伝いたいと(従業員として)言い、働き出した。お店を拡張した。そのときお店に SP1型を設置。それに伴う諸々のことで 怒涛のごとき忙しさだった。しかし、今のこのご時世、拡張すること自体すごいことだよと言われ あらためて感謝することだった。拡張当時、2週間程度の手伝いの予定が、すっかり従業員の一員として 私の仕事が確保されている。(その分はだれも手をつけない)^^; オーラソーマのコースを受講する。
 
そして、2007年10月、再びセドナへ。行くんだろうなあと思いながら、仕事や娘たちのこと 留守の間のたくさんの段取りなどを考えただけで いっぱいいっぱいでドタキャンのメールをしたのだが、そこはやはりmiyukiさんの旅、行くことになっていたようで。。。そうと決まったら走らなきゃ時間がない!腹くくって銀行行ったり郵便局行ったり メール打ったりで、あれやこれやの毎度毎度の結末と相成るのであった。 
いつものごとく最後の大きな山は 「夫」 眉間にひとつ大きな皺をつくって、なにも言わずにただ私を見る。想像していた表情だ。 これは私にはしんどい顔なのだ。嫌いなのだ。だからなかなか言えない。いつも。「そんなお金があるんだったら 何かのときのために残しておけばいいんじゃないの」 もっともだ。私も夫が理解できないものに大金をつかおうものなら同じことを言う。しかし、心の中で一言。  「大丈夫。アバンダンスきてるから。」
 
またあの赤い岩山を毎日のように登るのか・・・それを私は、本当にまた登りたいのか望んでいるのか、
そう自問してみる。 
ひとつは、去年グランドキャニオンのカフェで働いていたMr.ZEEKに 「また来年 戻っておいで」 と、1ドルコインを 金銀それぞれ1枚ずつ渡されてたから、戻らねばとどこかで思っていた。 
それととても魅力的なプランが組まれていた。ラスベガスでショーを観ることと、ゴールデンゲートブリッジを渡ること ヨセミテに行くこと。わくわくするプランだった。予備知識があったわけではないけど、とても心ひかれるのだった。私の巡礼魂(放浪者)の血が騒いだ。 そしてなにより セドナが大好きだということ。
 
もちろん今回は 前年の旅で過酷さを覚悟していた。それが、それほどでもなく感じられたのだ。みんな同じことを言っていた。 

















 また今回は、前回の旅で一日ガイドをして下った イルさんのご主人のリーさんの
セッションを受けることができた。セッションの前にイルさんが ひみつのポイントに連れて行ってくださった。病気のリーさんのプライベートドクター?の日本人のポンチャン先生も急遽いっしょに行くことになった。そのときに イルさんに 陰陽のバランスをとるのが目的の旅だと言われた。( もうひとつの目的も 出発前に聞かされていた。) 
「偏りそうになった時には、統合されたときのことを思い出して、人との関わりから
すーっと離れて ひとりの時間をとって 静かにその時のことを思い出しなさい。」 更に、「ご主人と同じ方向を向いていますか?向いてあげると もっと開かれます。 思い出すだけでいいから。」 と。 
山を下りながら 向こうにある山(夫婦岩)を 指差して、「こちらと繋がっている。(右回りに指を回しながら) このエネルギーを回して。どんどん動き出すから。しばらく回してて。」 「スピリットの風は、大地が温まって下からフワ〜っと上がってくる(上昇気流)やわらかいやさしい風。ふつうの風とは違う。」
「セドナは7,8回海底だったことがある。白っぽい厚い層は深海、薄い層は浅い海だったとき。」 
リーさんのセッションは、大病をされて、奇跡的に回復され仕事を再開されたばかりということで このタイミングはとてもラッキーだった。セッションの内容は、長くなるので いつかブログに書こうと思う。 
少しだけ書かせてもらうと、私が生まれたときからもっているエネルギーはレディナダ。慈悲、慈愛、奉仕など。それはこれからもずっとある。それと今また使命が少し変わって、これからはヒラリオンのエネルギーがでてきている。真実、ヒーリング、豊かさ(アバンダンス)。ヒーリングをやっていくでしょう。またクリスタルと相性がいいとおっしゃって、今までだれにも触らせたことはないというレムリアンクリスタルを持たせてくださった。
ヒラリオンに関しては、miyukiさんが、アッパータウンにあるお店で目があったのよ、と言って買われたカードがヒラリオンだった。見せてもらったとき どきっとした。 なにかかぶる・・・  同じミユキで miyukiさんもレディナダのカードは家に持っているらしい。私はそのときレディナダのカードを買っていた。 
終わる頃にポンチャン先生もいらして写真タイム。飲ませていただいたデカフェのコーヒーが、とてもおいしくニューフロンティアで買えると聞いて 大量に買って帰った。
 
 また、miyukiさんのツアーらしく予定外のことも予定通りにあって ホピ族の居留地に行った。それどこ?なに??  2度と来ることはないだろうな(こういうチャンスはないだろうということ)と思った。そんなところだった。今でも そこで買ったハミングバードの人形がなければ幻想だったのではないだろうかと思う。
 
 こうして書いていくとmiyukiさんのダイアリーのようになってしまい 簡単に終わりそうにない。短くまとめようと持っていっていた小さな手帳をめくってみると 「夜、レイキの練習」 と書いていた。そうなのだ、今回は、miyukiさんによる最終チェックに合格したら、認定証をいただけることになっていたのだった。 
 まったく自分は対象外だと思っていたから練習もしなかったのだが、miyukiさんからこの機会にとったほうがいいと お達しがあり、くにちゃんらに付き合ってもらい復習。そしてめでたく合格して、認定証を戴けたのだった。今、ゴールドの美しい額に入れて我が家のリビングの壁に飾られている。
 

 たくさんの試しのあった旅だったが それ以上に楽しい旅だった。ラスベガスは、行くことがあろうかと思っていた街だったが純粋に観光してる気分になれ、ほんとうに楽しんだ。どこも後悔しないよう 思う存分味わいつくそうと思っていたから そりゃあもう積極的にいった。
 miyukiさんの旅がそうであるように、人生は積極的に自分の手でつかみにいった者が 人生を豊かに彩ることができる。経験こそが証しだと思うから。
 
 サンフランシスコでは、あの電車にも乗ったし ゴールデンゲートブリッジも自転車でわたった。渡った先の街の美しかったこと。こじんまりとして、夕暮れどきの街のやわらかな明かりに心が和み、 とても愛らしい街だった。一目で気にいってしまった。そのことを、池田さんに話したら 「さすがお目が高い。あそこは人気があるんですよ〜。橋の向こうに住みたいという人が増えてるらしいですよ。」と。 もしサンフランシスコに暮らすことがあったら 絶対ここに住もう〜!と口走っていた。
 
2度のセドナヘの旅を終えて あらためて振り返ってみると 大きく変化していることに驚いた。 
この6月には、CW7型を設置することができた。次女は学校を転校した。娘はいきいきと本来の彼女らしさを取り戻した。( これも想定外の出来事により すばやい判断でおこした行動だった )
CW7型の設置は、私の長年の宿題を解決してくれるものとなる。夫との関係性が なんとなく変わった。それは、家族それぞれも変わったことがよくわかる。この感じ、なかなかいいんじゃない?みたいな空気というか役割というか。お店もありがたく、働く者も、お客様も居心地よさそうにいてくれるのが感じられるのだ。 
会いたい人、会うべく人とも会える。それが更にわくわくする繋がりをみせる。行きたいところにいいタイミングで行ける。それも見事な繋がりを展開する。

 
 CW7型をつけるかどうするかで迷っていたときにmiyukiさんに言われたことは、去年、お店に1型をつけたときには、1年後に 自宅に7型をつけられるとは 考えられらなかったことで、1型でもそれだけのことがおこるのだということ。 
上さんがおっしゃった。「代表(STS)がいつも言うのは、大事なのは 命と環境だと。」 それ以来、シンプルなこの一言で たくさんの理由よりも私の心の中のパズルが完成したようで、不思議なおまじないのように いつもリフレインしている。 
これから取り組むべきことの 大きな枠が見え始めてきた。
 
 旅で得たものはかけがえのないもの、なにものにもかえがたく 旅の仲間は、その最たるもので 特別な人たちになった。ほんとに大好きでイトオシイ人たち。 
書きたいことが充分に書けてはいないが これでよしとしょう。 
みなさ〜ん、3月にそろって・・・^0^  グ〜〜〜ゥ!              服部ママ
 
 
何もかも初めての体験ばかりで、セイヤ君のこともあって、2006年の旅では気苦労も、いろいろあったと思います。その中で、翌年も帰ってくるというサインを示されていた服部ママ。それでも、現状での問題は超えるようになっていた。一度は諦めたものの、他の二人と同様に、「神の目」を通してのメッセージが私のところに来たので、一押しさせて頂きました。(^^)

 今回は、一人だったこともあって、必然的に自分のことにもっと集中出来ていたはず。モニュメントバレーでの洞窟での変わり様は、他の人たちにも明らかで、本当にわかりやすかったですよね。 まさに、そのために来たという感じで。(^^)

 帰ってからは、一年以上前から示されていたこと、今生での使命に関することに向けて、具体的に動くことになりました。いよいよ、時は来たれり! ですね。 そのまた一年後を、楽しみに・・・☆